「元気ないね、ツナくん」
憧れの少女の声は、どこまでも優しい。
「えっ、そんなことないよ!京子ちゃん達と遊べて楽しいし!!」
慌てて首をふったけれど、自分でも白じらしくて説得力がないのはわかっていた。
案の定それが伝わってしまったのか、京子は眉をひそめて不安そうな顔つきになる。
綱吉は自分の失態を悟った。
虚勢を崩す。悪い事をしたのともまた違うけれど、いたたまれない。
「……ごめん。でも嬉しいし、楽しいと思っているのは本当だよ」
かけねなしの本音だった。
あれから父親のことを考えて複雑な心境だった綱吉を、友人達は元気付けようとしてくれた。
こうして気にかけられて、補習をさぼって遊ぼうと連れ出されて。
そしたら今日も今日とて絶好調のちび達の面倒を見て振り回されて、休憩と一息つけば
京子とテーブルを挟んで向かい合って。かつての状況を考えれば、本当に幸せすぎて信じられないくらいだ。
それでも無意識のうちに浮かない顔をしていたのだろうか。普段はふわふわと人を癒してくれる笑顔が、曇ってしまうくらいに。
その気持ちを、嬉しいとは思うのだけれど。
「何かあったの?私には相談できないこと?」
「ええっ?!違うよ!ただ、ちょっとなんと言えばいいのか……」
言葉に迷う。実際のところ、相談できないというよりは、むしろ相談するほどのことでもないのだ。
色々難しく考えたところで、綱吉が、父親のことも割り切れない子どもであるというだけなのだから。
未熟な幼い精神。わだかまり。置いていかれた母本人が気にしていないのだから綱吉がどうこう言っていいことじゃない。
己の狭量さに落ち込む。こんなことではかの人の隣にたつなんて夢のまた夢だ。
目指すは某草をくわえた人ぐらいの包容力と言うか、彼の役にたてる有能さである。
段々ずれはじめながら逡巡している綱吉に、大事でないことだけは伝わったのか、京子はほっと安堵して、
次はにこにこと笑顔になった。やっぱり京子はそちらの方が似合う。えへ、と綱吉もつられて笑った。
「――じゃあ、雲雀先輩には話してみた?」
「ぶっ!!」
―――なんて油断していたら無邪気に動揺させまくりの台詞をはくのが綱吉の周囲の人間という事実。
うっかり飲んだものをはきだしてしまう。ごほごほとむせた。
情けないくらい動揺していた。いくらなんでも雲雀の名に過剰反応しすぎだ。
京子にはからかうつもりもないはずなのに、時折どきっとさせられる。核心をつくものが多すぎる。
「な、なんで……?」
「うん、なんとなく。ツナくん、雲雀先輩になら気兼ねなく話せるんじゃないかなって。
うまくは言えなくても、きっと雲雀先輩には伝わると思うし。
ちょっと悔しいけど、きっと一番ツナくんのことわかってるから」
「ふへぁあ?!」
つくづく思うのだが、京子は綱吉と雲雀の関係を根本的に勘違いしているのではないだろうか。
確かに綱吉はわりと――いやかなり普段から雲雀に頼りまくっているが、京子の言い方はまるで
雲雀が綱吉のことならなんでも親身になってくれるとでも言いたげだ。
……一番綱吉のことをわかってくれていると言われるのはちょっと、あくまでちょっと!嬉しいけれども。
「雲雀先輩、ツナくんが頼ってきたら嬉しいと思うな」
「そうかなぁ……」
またか、と呆れ顔で溜息をつかれる姿ならありありと思い浮かぶけれど、喜ぶなんてありそうにもない。
そもそも雲雀は他人のことで煩わされるのが嫌いだ。昔からのよしみでしぶしぶながら綱吉のことは
助けてくれるので、それをわかっていながらもついつい頼りにしてしまうのだが。
だって雲雀に助けてもらえるなんて、そうそう誰でも体験できることじゃない。
貴重というかちょっとだけ優越感だ。雲雀の特別になったような錯覚を覚える。
ひょっとすると自分は、その錯覚を感じたくてことあるごとに雲雀の元に駆け込むのかもしれない。
うっかり気づいてしまった傲慢さにショックだけれどもそんなのを気にしてたら恋する乙女なんてやってられない。
それでもやっぱり、限度というものはある。
「ほんと大したことじゃないんだって。ヒバリさん忙しいのに
そんなくだんないことばっか言ってたら怒られちゃうよ」
特に今は一挙手一投足が恐ろしくてしょうがないのだ。自覚して、雲雀のことを好きだと思えば思うほど、
ささいなことでも嫌がられたくない。おそろしい。言葉一つかけるだけでも勇気が必要だった。
雲雀の冷たい視線を受けることを想像するだけで、ぎりぎりとちぎられそうに胸が痛む。
だから苦笑してみせる。事実、綱吉が意地をはっているだけで、大した事ではないのだ本当に。
ただ、なんだろう。
父親が帰ってくる。
その事実に、ざわざわと胸が騒ぐのだ。不安。もやもやしてはっきりとしない気持ち悪さがある。
大事な世界の中に、黒いもやがかかり始めてしまったような、何かが侵入してくるような、
闇にむかって警戒する本能にも似て。
(……なんか)
ずっとおかしなものを感じている。
この違和感は。本当にこれは、父親へ対してのわだかまりだけから生まれた気持ちだろうか。
背筋がじわじわと冷えていくような恐ろしさは、本当にそんな、幼稚なだけのものなのか。
もしかするとこれは何か別の―――……
ぞくり、と。
肌が粟立った。全身がびりびり緊張して、急にちりっと頭のどこかが焼けるような感触が襲う。
「ツナくん……?」
息をつめた。席を立つ。京子が怪訝そうな瞳で見つめてくるが、綱吉はそれを気にかけてやることはできなかった。
どんどん大きくなる恐怖が神経を削って余裕をなくさせる。
何か、とてつもなくおそろしいものが近づいてくる。辺りを見回した。冷や汗が身体中からあふれている。
本能が身体の制御を支配するほどの警鐘を鳴らした瞬間、鳴り響いた轟音と同時。
気づいた時には目の前の少女を押し倒して上から覆いかぶさるように庇っていた。
ドォン、と何か爆音のような響きと、今まで綱吉たちがついていた席の、テーブルに叩きつけられる人影。
どこからか飛んできたその人物と同時にテーブルごと地面に倒れて、その衝撃で跳ねた椅子の方が、
京子に覆いかぶさったままの綱吉の背中を打つ。
鋭くはしる痛み。
「っ……」
痛みに耐えながら、爆風が頬を撫でる。ゆっくりとおさまっていくそれに、ようやく目を開ければ、
原因となった視界に倒れている人影は、予想より小さく幼い。綱吉たちとそう年は変わらないだろう少年。
まっすぐに自分より綱吉達を案じてみせる瞳。傷だらけの身体。
「ツナ!」
「10代目!!」
駆け寄ってくる友人達の気配を感じる。けれどそちらに視線が向けられることはなかった。
だってその視線を向けなければいけない相手がいる。
「ヴぉおおおおおおおおいい!!!」
銀。
銀にたなびく髪。青年だった。目つきが悪く、荒々しい口調の。
威圧感を与える男。きっと少年が倒れ伏している理由。嘲笑するような眼差し。
その腕にあるものが意識を奪う。そこにも、銀。けれどたなびくそれとは種類がまったく異なる。
剣。人を傷つけるためにある武器。
(なんだこれ……)
平和な街中、平和だったはずのそこを、戦場へと変える存在。
警鐘がどんどん大きくなる。本能が精神を凌駕する。覚えがあった感覚。
あの忌々しい男との戦い。世界が変質する予感。余所から来た存在が、世界を奪う。あの時と同じだ。
知ってしまった。気づいてしまった。一瞬で。言葉もかわさないままに、その色だけで。
「あー……」
ここ最近、ずっと感じていた不安が、綱吉を飲み込むように押し寄せる。
父親が帰ってくるだけなんて、ちょっとした非日常ではない。心が凍りつく襲撃。
これだったのか。
ずっと感じていた不安は、ずっとこれを予兆していたのか。
つい数分前まで、優しい少女の柔らかな空気で満たされていた場が、一瞬で塗り替えられてしまった。
そうなることを、心のどこかで、知ってしまっていたのか。
いや違う。今この瞬間知ってしまったのだ。この災厄の原因を。己の血の因果を。毒を。鎖を。
覚えたのは絶望だった。生存本能を色濃く残した己の直感が、あれが死神であることを教えてくれる。
気づきたくないのに、身に危険が迫るほど、あの銀が恐ろしければ恐ろしいほど冷えていく精神がある。
冷静になっていくことがわかる。
また奪われる。災厄がやってくる。いやだ、どうすればいい。
―――できることがあるだろう。
でも嫌だ。これは、己の存在を否定するのに。冷静でなんかいたくないのに。
逃げたい。通り過ぎるまで震えながら縮こまっていられたらどんなにいだろう。
恐ろしかった。銀を認めた瞬間に知ってしまった、己がとらなければならない選択が、恐ろしくてならなかった。
でも。
――あの時何を後悔した。何を決めた。
手に入れた仲間という日常の欠片が欠けさせられたことを覚えているか。
ゆっくりと倒れる身体を覚えているか。
傷ついた身体を覚えているか。
絶望を、覚えているか。
あの薄暗い世界が彼を、また――……
あか、が脳裏をよぎった。
精神が、あつい。
「……」
身を起こし、京子にも手をかして立ち上がらせる。彼女の表情は真っ蒼だった。きっと何が起きたのかもよくわかっていない。
それを、冷静に分析できている自分がいる。それは一体なんの証だろう。泣きたくなった。
唇が勝手に言葉をつむぐ。
「――京子ちゃんは、逃げて。できるだけ遠く」
――そうきっとこの変質を、知らずにいてくれる距離まで。
ねえお願いだから。あの優しさを、失いたくない。
「でも――……」
「だいじょうぶ、だから」
額にあつまる熱がある。きっと灯る光がある。認めたくない己の一部がその時のことを覚えているからだ。
何をされずとも、一度できたことを忘れたりはしない、自分が嫌う自分。
「沢田殿……!!」
いつの間にか体勢を立て直した少年が綱吉の顔を見るなり叫ぶ。
――後で聞く。
何も知らずにそう返してしまった自分は、きっと全部わかっていた。
2009.2.7